田園調布会 概要
About DENENCHOFU KAI
ご挨拶
100年に及ぶ我が田園調布会。とは言え我が街が住宅地として姿を現したのは江戸時代や明治維新の話ではない。
大正5年実業界を引退した渋澤栄一は社会の近代化とその中核としてのまちづくりに心血を注いだ。彼は欧米に引けを足らない東京を誕生させるべく田園都市株式会社創立を提唱し、会社は大正7年に発足した。
その後恐慌に見舞われるなどしたのち第一生命の矢野恒太、阪急の小林一三らが渋澤の懇請を受け経営に加わった苦難の時代もあった。若き五島慶太や渋澤の子息秀雄も英国のガーデンシティなどに範を求めてまちづくりに参画。秀雄はサンフランシスコ郊外のセント・フランシスウッドの放射状の道路を気に入った。そこで彼は今日の駅前から伸びる放射状の道路をこの分譲地のサイトプランを担当した矢部金太郎に依頼。こうして今日の田園都市の西側の骨格が出来上がった。
同時に東側も整然とした区画整理が進められ住宅が立ち始めた。駅は出来たもののガスも水道も街灯もない。警察や郵便局もないフロンテイアだった。先人たちの苦労が偲ばれる。
きっかけは関東大震災だった。人々はナイナイづくしのこの町で困った。大正13年暮12月26日最初の住民協議会が開かれた。田園調布駅(最初は調布駅と言った)の2階のこぢんまりしたレストランで住民は肩を寄せ合うようにして話し合った。
大正15年には田園調布会が発足。この時の発起人一同の呼びかけには「何卒おひとりも漏れなくご加入あらんことを望みます」とある。全住戸は200余であった。
町内会田園調布会はその後社団法人に、そして現在では一般社団法人として活動を続けている。私たちは先人の苦労と努力に学び、伝統と文化を受け継いでゆかなければならない。緑と太陽に満ち、平和と安らぎに包まれた生活を守ってゆかなければなりません。
田園調布憲章に謳われているように隣人や街の人びととの交わりを大切にし、豊かな田園都市を守り育ててゆこうではありませんか。
会長 代表理事
大髙 英昭
田園調布会の歴史
この広場を中心とする約80万平方米の地域は、明治文化の先覚者渋沢栄一が、我国将来の国民生活の改善の為に、当時ようやく欧米に現われ始めた「田園都市」に着目して都会と田園との長所を兼ねた模範的住宅地を実現させようと念願して、既にあらゆる公的関係から退かれた後であるにもかかわらず、自ら老躯を運んで親しく土地を選定されたところであります。
その目的のために、大正7年田園都市株式会社が創設されて、の理想に共鳴する人々に土地の分譲を行い、我国最初の近代的大計画都市が実現しました。そして大正15年5月、居住者による社団法人が生まれました。それが田園調布会のはじまりです。
当会は、この都市全体を一つの公園のように明るく美しいものにするため、建築その他に関しいろいろな申し合わせを固く守り、殊に道路との境界には土塀などを一切造らず花垣か生け垣の低いもの程度とすることなどを厳格に実行しました。その協力の結果、この明るい住宅地と楽しい散策地が生まれたのであります。
大正11年には、同社の姉妹会社として目黒蒲田電鉄が創立され、大正12年3月、当時荏原郡調布村であった当地に調布という駅が設けられ、まもなく田園調布という名に改められました。その後この地区が東京市に編入された際、町名改正が行われて当都市のみならず周辺の町村をも広く含めて田園調布と呼ぶこととなりました。その折、当会の地域は当初の田園都市の約2/3となり他の1/3は、世田谷区玉川田園調布となりました。
ここに明るく住む方々も、ここを楽しく訪れる方々も、渋沢の理想が永くここに栄えてゆくように、この田園都市を愛談して下さるようお願い致します。